昨日のいま頃

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ガチャベルトに学ぶありふれたもののすぐ裏に潜む驚異!!

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ぼくは以前、配送の仕事をしてました。ある日、現場へ出発するために準備していた時の話。

 

後輩の配送トラックの助手席の足元をふとみると、かなり汚れくたびれたズボンのベルトが落ちてたんです(布のガチャベルト)

 

 

ぼくは後輩に「何このベルト?」って聞くと後輩は「?」といった様子で作業中の手を止め、かけてるメガネの中心を人差し指でシコシコと2~3回上下させながら「あっ、それベルトだったんですね!何か落ちてると思ってたけど今初めてベルトだと気づきました、それくらいシカトしてましたww」っと笑いながら言い放ち、ふたたび黙々と作業の続きにいそしんでました。

 

ぼくはこのときの不思議な感覚を今も覚えています。

 

人はある物体が視界に入っても意識してない場合、何かがある事を脳が認識してもその物体が何なのかをキチンと認識できないんですよね。そして存在すら忘れてる。

 

ぼくが指摘するとハッとするけどやはり関心なし!片づける様子もなし!そしてその汚れくたびれたベルトの末路は不明。

 

こうしてみるときっと、ぼくも日常的にいろんなものを見落としてるんじゃないかと思う次第です。

 例えば、冷えたお茶を飲むという目的で冷蔵庫まで移動中、床に落ちている「お菓子の袋の切れ端」がたまたま視界に入り、「あ、落ちてる」と思うとも思わないとも、なんともよく分からない無意識とも言える意識で脳は認識はしてるけど『拾ってゴミ箱へ捨てる』までは行動しない。

その瞬間、もっとも優先すべきお「茶を飲む」という目的があると、さほど重要ではない視界に入ってきたゴミのことを切り捨てた結果、ちゃんと認識できないポイ。

 

そもそもお茶を飲むこと自体も「よし、お茶飲むぞ」と考えもせずなんとなくお茶を飲むという目的を達成する。

 

そしてついさっき視界に入ったゴミの存在をもれなく忘れてるという・・・。

 

その「お菓子の袋の切れ端」は後で思い出して自分が捨てる事もあるっちゃあるが、いつまでも床に落ちた状態で放置され、いつか誰かが気づいて捨ててる場合も多々あるはず。

 

順を追って考えると

 

「視界に何か入る」→「何なのか確認」→「ゴミと分かった」→「ゴミを拾う」→「ゴミ箱へ入れる」

 たったこれだけの事なのに不思議と完全にシカトしてることがよくある、と思う。

 

てことは自分以外の人がそのゴミである「お菓子の袋の切れ端」をゴミ箱へ捨てた場合、ぼくにはその「お菓子の袋の切れ端」の存在も忘れた結果、最初から存在しなかった事になる。

 

つまりその瞬間どうでもいい事は記憶から削除され「ガチャベルト」も「お菓子の袋の切れ端」も最初から存在しないのだ。

 

いや、現実は誰かがそのゴミを捨てるという一連の動作をしているはず、が、そのゴミを捨てた話を聞かない限り絶対にその真実を知りえないという

 

何とも不可思議な出来事がぼくの知らないところで日々繰り広げられてるかも・・・。

 

考えすぎるとキリがないがこのガチャベルトを思い出すと、なんてことのない日常生活の中、もう少し意識的に行動しないとヘタすりゃ我が人生においてかなり重要な事を見落としてる可能性があるかもしれないという真実をつきつけられたようで身震いするばかりだ ・・汗 

「ガチャベルト」も「お菓子の袋の切れ端」も幸いどうでもいいことだったと思うけどね。

 

ちょうど書いてて思い出したぼくの好きなフレーズ。

哲学は、望まれているほど多くの問いに答えられないとしても、問いを立てる力は持っている。そして問いを立てることで、世界に対する興味をかきたて、日々の生活のごくごくありふれたもののすぐ裏側に、不可思議と驚異が潜んでいることを示すのである。

 

どうですこのフレーズ。ぼくは哲学書なんて読めませんが、たった四行の文章で考えさせられますよね。

ほんと、たまたまこのガチャベルトのブログ記事書いてたら知ってる哲学の一文を思い出しました。

 

いわゆるジョブズの言っていた点と点がつながって腑に落ちる瞬間ですね。スティーブ・ジョブズすげぇwwぼくの例はショボいですがブログを書くとこうした小さな気付きもあるんですね。

 

マジで読んでませんがこの書籍の21ページの文章らしい、いつか挑戦したいと思います。バートランド ラッセル(著)「哲学入門」】

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